「社会開発論WEEK 2」Top Page

【マルサスの罠について】

鳥居泰彦『経済発展理論』東洋経済新報社、1979年。

 第6章 低開発経済の理論
  第2節 マルサス的均衡の原理

「貧困」の均衡論的解釈

 なんらかの仮説的初期状態を想定して、そこからの変化を演繹的に展開することは、経済学がしばしば用いる方法である。この意味で経済発展理論の第1歩は、もっとも低開発な初期状態を一種の均衡状態として想定することである。低開発の貧困状態から離脱するための条件を解明することは、理論的には、とりもなおさず、この初期状態の均衡から離れるための条件を解明することにほかならない。

 まだ経済発展のプロセスがはじまっていない純粋な低開発状態を均衡論的に描いた最初の人はマルサス(Thomas Robert Malthus)であった。マルサスは、有名な『人口論』*の中ではじめて、離陸以前の経済において1人当り国民所得が極端に低くなる理由を説明してみせた。これを原形としてマルサス的均衡の理論(theory of Malthusian equilibrium)、あるいは最低生存費均衡の理論(theory of subsistence minimum equilibrium)と呼ばれる分析概念が発達し、低開発経済を記述するための基本理論として用いられるようになった。

* T.R. Malthus, An essagy on the Principle of Population, 1798(大内兵衛・高野岩三郎訳『初版人口の原理』岩波文庫、1935年)。

 マルサス的均衡理論の重要性を再発見したのは、ヴァイナー(Jacob Viner)とライベンシュタインである。ライベンシュタインは、ヴァイナーの示唆を得て*、経済発展の開始と加速の条件を、マルサス均衡理論を使って解明しようとした。・・・

*Harvey Leibenstein, A Theory of Economic-Demographic Development Princeton University Press, 1954.

 ここでは、ライベンシュタインにしたがってマルサス理論が貧困の原因をどのように説明したかをみよう。現実の低開発経済にはさまざまの特徴があるが、マルサスは、それらの中からつぎの4つの現象をもっとも本質的な特徴として抽出した。

(1) 人々は農業を主とする生産活動に従事している。
(2) 人々は農産物に依存した消費生活を営んでいる。
(3) 1人当り所得は極端に低い。
(4) 人口は生産物の増加速度を上回る速さで増加を続けている。

 このように、多くの現象の中から主要な特性だけを選びだして理論分析の焦点をしぼる抽象の操作は、理論を組み立てるための第1歩である。

マルサス理論の第1仮定(限界生産力逓減法則)

 (1)〜(4)の特性をもった低開発状態の成立原因を説明するために、マルサス理論は3つの基本仮定を用いる。

〔マルサス理論の基本仮定I〕

 収穫量は労働投入が増加するにつれて増加するが、その追加増分はしだいに逓減する。(第6.1図はその様子を示している)。

 これは、限界生産力逓減法則と呼ばれる現象である。

 第6.1図で示される労働投入量と生産量の間の関係は、「投入産出曲線」または「生産関数」と呼ばれる。投入産出曲線は下方にそり返っているために、労働投入量を増やせば増やすほど生産量は増加するが、追加的増分はしだいに小さくなる。この関係が、限界生産力逓減の法則である。

マルサス理論の第2仮定(人口増加による窮乏化のメカニズム)

 低開発経済の社会では、さきの特性(4)でみたように人口は増え続ける。この人口増加現象は、マルサス理論では、人間社会に固有の自然法則とみなされている。これはマルサス理論の2番目の基本的仮定である。

〔マルサス理論の基本仮定 II〕

 人口は、ある限界までは、増加し続ける性質がある。

 収穫逓減法則は、人口の増加につれて1人当り生産量が減少する原因になる。1人当り生産量とは、第6.2図で生産量Qを労働投入量Lで割った値、すなわちQ/Lである。角度θの大きさ(正確にはtanθ=Q/L)が1人当り生産量を表している。第6.2図の上で労働投入が、L1、L2、L3と増加すると、1人当り生産量はQ1/L1、Q2/L2、Q3/L3としだいに小さくなる。これは投入産出曲線が限界生産力逓減法則によって下方に曲がっているために必然的に起こるのである。1人当り生産量の減少は1人当り消費の減少を伴う窮乏化の現象である。なぜならばさきの前提(1)によって消費生活もまた農産物に依存しているから、生産物は農業社会内部で分配され、消費される。したがって1人当り生産量の漸減は、1人当り消費量の漸減と読み直すことができる。

 このように第6.2図の縦軸の測度を生産量から消費量に読み換えたが、横軸もまた読み換えができる。横軸は投入労働量を測っているが、労働投入量はつぎのように分解することができる。

  労働投入量=人口×労働力率×就業率×労働時間 (1)
       =労働力人口×就業率×労働時間   (2)
       =就業者数×労働時間        (3)
       =総労働投入時間          (4)

 労働投入量を「人」(man)の単位でとらえれば「就業者数」であり、「人時」(man-hour)の単位でとらえれば「労働投入時間」である。つまり労働投入量は、人口、労働力率、就業率(有業率)、労働時間の4要因からなっている。

 これらの4要因は、経済発展過程で変化する。「労働力率」は歴史的に低下する傾向がある。多くの先進国では昔は未成年の労働は制度的に禁じられていなかったが、今日では若年労働は法律で禁じられていて法定の労働力人口(15歳以上60歳未満)も実際の労働力率も低くなっている。しかし発展途上にあるインドネシアでは労働力人口の公式の定義は「10歳以上の人口」であり、タイでは「11歳以上」である。そして実際にインドネシアやタイでは10歳前後の子供の就業は普通である。「就業率」は進学率と家計構成員の労働供給によって変化する。一般に経済発展が進めば進学率は高まり、世帯主以外の家族の労働供給は減少するから、全体として就業率は低下する。また、「労働時間」も経済発展が進むにつれて減少する傾向が認められる。

 このように、労働供給量は人口だけでなく、労働力率、就業率、労働時間等の要因で変化するのだが、マルサスの時代にはこれらの要因を無視して(または一定率と考えて)第6.1図、第6.2図の横軸の労働投入量を人口と同一視していた。このように、第6.2図の横軸を「人口」と読み換えることによって、「労働投入1人当り所得」は、「人口1人当り所得」と読みかえられる*。さらに前述のように横軸も「生産量」(所得)を「消費」と読みかえられ、第6.2図は、収穫逓減法則の下で人口が増加すれば、1人当り国民所得が減少するという窮乏化のメカニズムを示すことになる。

* 生産物はすべて農業社会内で分配されるから「生産量」も「所得」と読みかえられる。

マルサス理論の第3仮定(最低生存費水準とマルサスの罠)

 基本仮定Iと基本仮定 IIを組み合わせると、人口は第6.2図の上で、L1、L2、L3と増え続け、それにつれて、1人当り所得はどんどん減少する。この傾向は、「ある限界」に突きあたるまで止まらない。マルサスはこの限界を次のように仮定した。

〔マルサス理論の基本仮定 III〕

 1人当り所得は最低生存費以下に減少することはできない。

 マルサスは、それ以下では生存できない最小限の所得を最低生存費水準(subsistence minimum level)と呼んだ。第6.2図の角度θ4はその水準を表している。

 最低生存費水準を超えて人口が第6.2図のL4より大きくなれば、余分な人口は淘汰される。現実には、出産の抑制、堕胎、間引き、乳幼児死亡率の増大、餓死等が起こるであろう。また反対に人口がL4よりも小さくなれば、第2の基本仮定によって人口は増加するから、結局、人口はL4の水準に均衡して増加も減少もしなくなる。この均衡状態をマルサス的均衡の状態(Malthusian equilibrium)あるいはマルサスの罠(Malthusian trap)と呼んでいる。マルサスの罠の状態では、1人当りの所得は最低生存費水準であるから、所得の一部を貯蓄にまわす余裕はない。所得はすべて消費される。

 このようにして、マルサスは、1人当り所得が最低水準まで低下する貧困発生のメカニズムを説明した。これは結局、貧困の現象は限界生産力逓減法則と、人口増加法則の2つの法則性によって起こっていることを示している。


| 「社会開発論WEEK 2」のトップページに戻る |  第3節に進む |